ネットでいかにもうけるかについて
いきなりこんな感じから始めると、読者的にはどうかね?広告とネットについて、小田桐昭という方のインタビューを読んだ。その業界では40年というから、まあかなり長い間生きてきたんでしょうな。業界で。
ここで一つ考えてみたいんだが、妙な話、発信する側は何故常にこうなんだろうろうかと思う。例えば自民党の総理総裁もそうだけど、ある程度世論に支持されていても、自民党内部の執行部の意向が強く前面に出た結果になるように、社会的地位が上位であればあるほど、どうも世論を無視しがちであると思う。
というのも、”広告は何のためにあるか、という原点に立ち返ると、それは「ブランドを作るため」なんです。”という氏の言葉に一瞬納得したものの、広告を打てばブランド価値が上がるという考えは、正しいようで「?」ダナと思った。
広告の必要は一体どこから来たのかといえば、実のところクライアントからということは、すなわち企業である。マーケティングをある程度広げて動向を把握したら、ウケのいい作り手に任す。で、成立する世界・・まあ単純ではないけど乱暴な言い方とすれば、「企業が満足すりゃいい」世界だともいえる。結果としてものが売れれば、成功したと見るのが普通だし。
私達は今までは「上」から来るものを、ただありがたがりそれが世の中のトレンドとしてみる傾向があった。バブルくらいまでは。TVCM、新聞広告、街頭の広告。中には業界人で構成した賞まで作って、「優秀」というブランドまでつけて。
数字が~というが、ネットならページビュー、クリック数っで興味が引いたかどうかがわかるんだろうが、あとは具体的には売り上げとの相対効果としてみる以外ではないだろうと思う。
サービスなら、応対したオペレーターの対応数がそれを示すかも知れない。
エコロジーというものなどは、ある意味「広告」が、「洗脳」にまで発展したいい例だと思う。
非常に単純に考えれば、生産活動はゴミへらしの努力を「宣伝」に使う。エコロジーは謂わば、販売戦略だ。しかし単純に考えれば、作っているものを今日からやめればそれが最大のエコロジーである。
”ヒトとモノの関係をどのように深いものにしていくかが広告の役割”としている一方、そう言い切るのはちょっと不思議に思う。確かにブランドイメージを定着するように思うと、広告は大事だと思うし、もの買うときの参考にしている場合もあるでしょうね。
しかし、世の中成立しているのは、宣伝が増えるということはゴミを作るのと変らない。
CMというのは、自分たち尾だけが独占できるものではないし、相乗効果を期待するなら他のメディアにも同じように宣伝費をつぎ込んでいくものだと思う。こうなると無駄なものを生み出していく。キャンペーンで配るどう見ても邪魔な団扇、自分のところに届くダイレクトメール、雑誌に載ればそれ自体が読み終わればゴミになる。
ものとの関係でいえば、私は自分の車でいえば、私は車を買い換えるのが嫌いである。というのもせっかく苦労して買ったのに、手に馴染んだら飽きたというのは、あまり愛着などもてない車なんだろうと思うからである。いくら古くても手放したくないものもある。
これとは逆に最新であればあるほどいいとしている人もいる。
購買欲だけが、バロメーターではないと思う。
正反対に購買してみて、もの凄くダメでコミニュケーションの世界、ネットやアンケートなどでこっぴどい評価をされることがある。そうなると広告はただのゴミ以下。時によっては嫌われる存在になる。”広告本来のコミュニケーション”という意味が今ひとつわからない。
逆にコミュニケーション側は気にならないのだろうか?
どうも、こういった業界人のトップの話というのは、一般にありがたがる傾向があるという前提で、こういった話は成立している。広告に取り囲まれているとはいうけれど、かなりの部分で、取捨選択をしているから、実際無意識な部分に焦点を当てないと、広告は効果を実感できないので、サブリミナル効果をつかったコカコーラの宣伝などのようなことがおこる。
データが正確かどうかは別としても、自分たちは「イケてんのか」はつまり気になるところだと思う。売り上げに対し他者との優位性をアピールするのもそうだ。
ネットでの議論はまだ時期がはやいと思う。経済的にもっと豊かである必要がある。広告を得るために誰も何十万のパソコンを求めないとは思うが、コミュニケーションを求めてなら、多くの人はそれを求めるようになる。
しかし、まだネット上にある広告は、そこにつけ込んでるというスタンスはぬぐえない。
快く思われるかどうかのひとつのバロメータのように、動画CMの所には、音が消せるようになったり、それをスキップさせる仕組みがある。
明らかにテレビとは違う。自分たちで積極的に逆効果ということを意識している。
金を払うと、広告を消去したソフトウェアというものだと、広告表示を「不快に近い」制限という位置付けで、支払いを即す場合もある。事情が相当違うというのが明白である。
とまあ、こむつかしい話題があっただけという話だ。
ここで一つ考えてみたいんだが、妙な話、発信する側は何故常にこうなんだろうろうかと思う。例えば自民党の総理総裁もそうだけど、ある程度世論に支持されていても、自民党内部の執行部の意向が強く前面に出た結果になるように、社会的地位が上位であればあるほど、どうも世論を無視しがちであると思う。
というのも、”広告は何のためにあるか、という原点に立ち返ると、それは「ブランドを作るため」なんです。”という氏の言葉に一瞬納得したものの、広告を打てばブランド価値が上がるという考えは、正しいようで「?」ダナと思った。
広告の必要は一体どこから来たのかといえば、実のところクライアントからということは、すなわち企業である。マーケティングをある程度広げて動向を把握したら、ウケのいい作り手に任す。で、成立する世界・・まあ単純ではないけど乱暴な言い方とすれば、「企業が満足すりゃいい」世界だともいえる。結果としてものが売れれば、成功したと見るのが普通だし。
私達は今までは「上」から来るものを、ただありがたがりそれが世の中のトレンドとしてみる傾向があった。バブルくらいまでは。TVCM、新聞広告、街頭の広告。中には業界人で構成した賞まで作って、「優秀」というブランドまでつけて。
数字が~というが、ネットならページビュー、クリック数っで興味が引いたかどうかがわかるんだろうが、あとは具体的には売り上げとの相対効果としてみる以外ではないだろうと思う。
サービスなら、応対したオペレーターの対応数がそれを示すかも知れない。
エコロジーというものなどは、ある意味「広告」が、「洗脳」にまで発展したいい例だと思う。
非常に単純に考えれば、生産活動はゴミへらしの努力を「宣伝」に使う。エコロジーは謂わば、販売戦略だ。しかし単純に考えれば、作っているものを今日からやめればそれが最大のエコロジーである。
”ヒトとモノの関係をどのように深いものにしていくかが広告の役割”としている一方、そう言い切るのはちょっと不思議に思う。確かにブランドイメージを定着するように思うと、広告は大事だと思うし、もの買うときの参考にしている場合もあるでしょうね。
しかし、世の中成立しているのは、宣伝が増えるということはゴミを作るのと変らない。
CMというのは、自分たち尾だけが独占できるものではないし、相乗効果を期待するなら他のメディアにも同じように宣伝費をつぎ込んでいくものだと思う。こうなると無駄なものを生み出していく。キャンペーンで配るどう見ても邪魔な団扇、自分のところに届くダイレクトメール、雑誌に載ればそれ自体が読み終わればゴミになる。
ものとの関係でいえば、私は自分の車でいえば、私は車を買い換えるのが嫌いである。というのもせっかく苦労して買ったのに、手に馴染んだら飽きたというのは、あまり愛着などもてない車なんだろうと思うからである。いくら古くても手放したくないものもある。
これとは逆に最新であればあるほどいいとしている人もいる。
購買欲だけが、バロメーターではないと思う。
正反対に購買してみて、もの凄くダメでコミニュケーションの世界、ネットやアンケートなどでこっぴどい評価をされることがある。そうなると広告はただのゴミ以下。時によっては嫌われる存在になる。”広告本来のコミュニケーション”という意味が今ひとつわからない。
逆にコミュニケーション側は気にならないのだろうか?
どうも、こういった業界人のトップの話というのは、一般にありがたがる傾向があるという前提で、こういった話は成立している。広告に取り囲まれているとはいうけれど、かなりの部分で、取捨選択をしているから、実際無意識な部分に焦点を当てないと、広告は効果を実感できないので、サブリミナル効果をつかったコカコーラの宣伝などのようなことがおこる。
データが正確かどうかは別としても、自分たちは「イケてんのか」はつまり気になるところだと思う。売り上げに対し他者との優位性をアピールするのもそうだ。
ネットでの議論はまだ時期がはやいと思う。経済的にもっと豊かである必要がある。広告を得るために誰も何十万のパソコンを求めないとは思うが、コミュニケーションを求めてなら、多くの人はそれを求めるようになる。
しかし、まだネット上にある広告は、そこにつけ込んでるというスタンスはぬぐえない。
快く思われるかどうかのひとつのバロメータのように、動画CMの所には、音が消せるようになったり、それをスキップさせる仕組みがある。
明らかにテレビとは違う。自分たちで積極的に逆効果ということを意識している。
金を払うと、広告を消去したソフトウェアというものだと、広告表示を「不快に近い」制限という位置付けで、支払いを即す場合もある。事情が相当違うというのが明白である。
とまあ、こむつかしい話題があっただけという話だ。
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